第7回■頼朝、西行を驚かす!第1章6 一一八六年(文治2年) 鎌倉■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 静の母、白拍子の創始者磯の禅師(いそのぜんじ)が頼朝の御台所、北条政子(ほうじょうまさこ)に呼ばれている。 「よろしいか、禅師殿。このたびの静(しずか)殿の舞にて、頼朝殿の心決まりましょうぞ」 「舞とは…」 禅師は、娘の静とは、しばらくの間会っていなかった。いや会えるはずがなかった。静は義経の行方を調べるために、獄につなぎおかれたのだ。 「その舞に頼朝殿への恭順の意を表されれば、頼朝殿もお考え改めましょう。それに私が内々のうちに、静殿の和子生かす手立て考えましょう」 「ありがとうございます。このご恩、決して忘れませぬ」 禅師はまた床ににはいつくばった。その頭上から政子の冷たい声が聞こえた。 「よろしいか、宮中への事、大姫のこと、くれぐれも…」 「わかりました」禅師は深々と頭をさげた。 ■■ 一一八六年(文治2年) 四月八日鎌倉。静の舞当日 その思いにふける禅師の前で、ようやく静の舞は終わり、舞台の袖にいる禅師の方へ戻って来るのが見えた。 磯禅師が静を問い詰める。「静、なぜお前は、この母の言うことを聞けぬか」 激しい口調である。 「母上、私はあの義経様に愛された女でございます。私にも誇りがございます」 「義経殿の和子を危険な目にあわせても、私の言葉きけぬのか」 「それは……」静は言葉に詰まり、涙ぐんでいた。 「もう、いかぬ。残る手だてはあの方か……」 禅師は、期待するような眼差しで、観客席の方を見やる。頼朝と政子は退席しようとしていた。頼朝の怒りが、禅師には手に取るようにわかった。諸公の前で、笑い者にされたのである。頼朝はプライドの高い男なのだ。それがあのような形で…。 ■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 政子を訪れた同日、磯禅師は大江広元(おおえひろもと)屋敷を訪れている。 「よろしい、広元の一存じゃが、禅師殿、静殿の生まれた和子、私に手渡してくれ」 「和子をどうなさるおつもりですか」 「よいか、義経殿、すでにもう平泉に入っているやもしれん。秀衡殿と示し合わせ義経殿が、この鎌倉へ軍を進めたときの人質に、その静殿の和子がなろう」 「和子を人質になさる……」 禅師の顔色が変わっていた。そのような、人質だと。 「どうした、我が処置に不満か」 広元は強気で禅師を追い込む。広元としては、万全の方策をとっておきたか ったのである。今や、鎌倉幕府の中枢は広元が握っている。 「いえ、そのようなこと」 禅師は、ここは広元の話に乗って置く方が善策と考えた。 「よろしいですか、和子を助けるだけありがたいと思い下され」と、広元は押し付けがましく言う。が、その時、禅師は、別の人物にしゃべる 言葉を考えていた。 ■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 同日、磯禅師は、源頼朝と関係深い勧進僧(かんじんそう)文覚(もんがく)にの前にいる。 「文覚殿、お願い申し上げます。どうぞ義経殿の和子生き残れますよう、お力をお貸しください」 「禅師殿、わかり申した。この文覚、いささか頼朝殿とは浅からぬ縁がござる。この伊豆に源氏の旗をあげさせ、決起するもとを作ったのは拙僧でござる。まかされよ、頼朝殿の心反してみましょうぞ」 「よい話でありがとうございます」 禅師と文覚がふと目が会う。お互いが別のことを考えていることが、わかっている。 ■■一一八六年(文治2年)四月八日。鎌倉。静の舞当日 「大姫(おおひめ)様、あなた様のお気持ち、この静はわかります」 静は舞いの後、大姫の前に呼ばれている。 「まて、姫のおん前であるぞ。直接お話を申し上げるとは何事だ」 警備の武士が静を引き離そうとする。 「よい、静の好きにさせるがよい。それが大姫がためじゃ」 政子が許しを出した。 「大姫様、志水冠者(しろうかじゃ)様のこと、それほどお思いでございましたか」 志水冠者は木曽義仲(きそよしなか)の息子であり、頼朝の命で殺されていた。 志水冠者の名が静の口から上ると、大姫の嘆きは一層激しくなるのだった。 「わかります。大姫様、お泣きなされ。それしか、方法はございますまい。この私とて、義経様には恐らく二度と会うことなどできますまい。いっそ死んでしまいたいくらいです。が、私には義経様の命が宿っております」 ■■ 「禅師殿、お願いじゃ」 「これは政子様。何かこの静が」 政子は舞の日の夕刻、密かに禅師のもとを尋ねて来たのである。 「静殿の舞いを、今一度見せてはくださらぬか」 「政子様、それはお許しください。そんなことを繰り返せば、頼朝様の怒りが増すばかり」 「いや、そうではない。この政子の娘、大姫一人のために踊ってほしいのです」 「大姫様のため、一体何のためでございます」 「あのこの気鬱を晴らしてやりたいのじゃ。のう禅師殿。お前様も母親なら ば、おわかりであろう。娘を思う親の気持ちが」 結局、大姫一人のために、静は政子の別棟で舞うことになった。 「しずやしず、しずのおだまき繰り返し…」 その静の踊りを見て、「よよ…」と、大姫は泣き崩れたのである。静はすぐさま大姫の前に跪いていた。「静、それ以上しゃべるでない」禅師が止めた。 「いえ、言わせてください、お母様。私は頼朝の手にありましても、常に義経様と一緒なのでございます。二度と会うことはできなくても、私はこれからの一生、義経様を愛し続けます」 「お前は何ということを」禅師が絶句する。 「静殿、、、」かぼそい声で、大姫が初めて口を開いた。まだ13歳のあどけなさが残る。 が、すでに婚約者を殺されている。心の傷は大きい。 「この世で、、初めて、、、友を得たような気がします」 「ありがたい、、お言葉を、大姫様、、、、」 二人の女性は、お互いに手を取り合って、泣き崩れる。 そばにいる二人の母親も、その光景を目にして、しばし言葉がでないのだった。やがて政子が口を開いた。顔色が変わっている。 「禅師殿、私は心を決めました」 「はい、、」 「この政子がお約束いたしましょう。必ずや、静の子供を助けると」 「政子様、そのお言葉、、、ありがとうござります。力強ございます」 禅師は京都ばかりでなく、鎌倉も手に入れていた。 ■■ 第1章7 一一八六年(文治2年) 鎌倉 1186年(文治2年)、草深き坂東鎌倉に三人の男が対峙しょうとしている。 東国で武家の天下を草創しようとする男。頼朝。その傍らにて、京都王権にては受け入れられず、坂東にて「この国の形」を変えようとする土師氏(はじし)の末裔。大江広元。 対するに、京都王権の交渉家、貴族政治手法である「しきしまみち」敷島道=歌道の頂点に立つ。西行。ここにひとつの伝説が作られようとしていた。 頼朝にとって、西行は打ち倒すべき京都の象徴であった。京都から忌み嫌われる地域で、忌み嫌われる職業、武家。 いたぶるべき京都。京都貴族王権の象徴物・大仏の勧進のために来た男・武士「武芸道」からはじきでた、貴族の象徴武器である歌道「しきしまみち」に乗り換えた男。 結縁衆(けちえんしゅう)なる職業の狭間にいる人間とつながりのある男。さらには、奥州藤原氏とえにしもある。坂東王国を繰り上げようとした、平将門を倒した俵俵太の末裔。この坂東にも、そして、義経を育て平泉に送りこんだた男。対手である。その男がなぜ、わざわざ敵地に乗りこんだか。その疑問が 頼朝の心に暗雲を懸ける。 西行にとってこの頼朝との邂逅は、今までの人生の総決算にあたるかも知れぬ。その長き人生において最後の最終作品になるものかも知れなかった。心に揺らぎが起こっていた。 が、その瞬間、重源(ちょうげん)と歩んだ高野山の荒行の光景が蘇ってきた。山間の厳しい谷間、千尋の谷、一瞬だが、谷を行き渡る道が浮かぶ。目の前にあるその道をたどる以外にあるまい。 「西行どのこちらへ」 大江広元が頼朝屋敷の裏庭に案内される。矢懸場が設けられている。 武家の棟梁頼朝は、毎日犬追物をたしなんでいる。的と砂道が矢来をさえぎられ続いている。 「さっさ、こちらへ」 促されるまま、西行は裏庭物見小屋へいざなわれる。 遠くに見える人馬が、的を次々と射ぬきながら、こちらへ走ってきた、頼朝である。 「いざ、西行殿の弓矢の極意を昨晩お伺いし、腕前の程をお見せしたかったのです」 「大殿は、毎日武芸にたしなみを、」 「西行殿は、我が坂東の武芸の祭りをご存知でしょうな」 坂東のしきたりが、京都の弓矢道と結びついているのが、西行には理解できた。京都人でありながら、武芸は坂東と、頼朝は言っているのだ。 馬をもといた場所にとって返し、再び、馬を駆けさせ、用意された的をすべて、射抜いている。 我が坂東の武芸の祭りとは、坂東足利(あしかが)の庄にある御矢山(みさやま)で行われる八幡神を祭る坂東最大の祭事である。いわば武家のオリンピっクである 「西行殿、奥州平泉からお帰りにこの祭りに参加いただきたいのです」 馬上から、息をつきつつ、頼朝が叫んでいる。返事は無用という訳だ。答えようとする西行の前から姿を消し、再び馬首を元の方へ。 西行は義経を助けなければ。が、藤原氏の黄金が、果たして役に立つのか。秋風の吹きはじめた鎌倉で、西行は冷や汗がでてきている。 三度、的をすべて打ち矢って、頼朝は馬上から叫ぶ。 「さらに、西行殿、義経のおもいもの、静の生まれし子供の事聞きたいのではござろうぞ。和子は男子がゆえに不敏だが、稲村ヶ崎に投げ捨てましたぞ」 と言い捨てている。後ろ姿に笑いが感じられる。 頼朝は、西行の策を、封じようとした。 西行は動揺を表情に出さず。が、考えている。かたわらにいる大江広元を見た。 (広元殿、政子殿がいるなかば、わづかばかりの希望あろう。また、そうか、あるいは、静の母磯の禅師が糸を引いているかも知れぬ。わずかだが、希望の光はある。極楽浄土曼陀羅、あの平泉におあわす方が。早く合いたい、さすれば、この身、西行法師の体は、まだ滅ぼすわけにはいかない、平泉を陰都となし、この世の極楽を、さらには、しきしま道にて日本を守れねばならぬ) 頼朝は四度目もすべて撃ち終え、今度はゆっくりと馬を歩ませてきた。 「西行殿、御家、佐藤家は、紀州にその領地がありと聞きます。弟君の、佐藤仲清殿。高野と争い絶えずときく。誠でしょうか」 馬上の頼朝は、しばし、西行の回答を待っていた。 「その御領地を、この頼朝の元に預けられぬか。さすれば、高野山との争いは解決して見せようぞ」 佐藤家は、高野山山領地、荒川荘の領地におしいっている。西行のなりわいはこの弟の家からでている。いわば佐藤家の家作からから活動資金がでている。紀伊の国、那賀郡、田仲庄は紀ノ川北岸にあり、摂関家徳大寺の知行である。佐藤家はこの徳大寺の家人である。今では平家の威光を背景にしてきたのだ。 その根っこを、頼朝は押さえよとしているのだ。 「どうでありましょうな、西行殿、この申し出は」 (絡め手か。やはり、頼朝殿は、この西行と義経殿の関係を気づいているか。京都でもそのとこしるは、わずかだが、、) 大江広元が、秀才顔でしらぢらと西行をにらんでいる。 大江は、水を得た魚。京都から呼びだされ、この鎌倉に根付いた時、歴史は変わった。日本最優秀頭脳集団・大江家。元は 韓国(からくに)から来た血筋。 この関東坂東で同じ韓国(からくに)の史筋武家の平家と結びついた。 「すべてのご返事は、平泉からの帰途におこないましょうぞ」 西行は、頼朝の前から去ろうとした。 「まて、西行殿」 大江が呼びとめようとするが、「勝負は、後じゃ」 頼朝が止めた。 「はっつ」 頼朝が打ち据えた的が割れていた。的の裏側には、平泉を意味する曼荼羅が描かれているのだ。武家の棟梁頼朝が、打ち破るべき国だ。そして黄金もまた、、 そして、西行は、まだ、最大のライバル文覚とは、対峙していない。 (続く) 「義経黄金伝説」 第7回 作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所 第1章6 一一八六年(文治2年) 鎌倉 ■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 静かの母、白拍子の創始者磯の禅師(いそのぜんじ)が頼朝の御台所、北条政子(ほうじょうまさこ)に呼ばれている。 「よろしいか、禅師殿。このたびの静(しずか)殿の舞にて、頼朝殿の心決まりましょうぞ」 「舞とは…」 禅師は、娘の静とは、しばらくの間会っていなかった。いや会えるはずがなかった。静は義経の行方を調べるために、獄につなぎおかれたのだ。 「その舞に頼朝殿への恭順の意を表されれば、頼朝殿もお考え改めましょう。それに私が内々のうちに、静殿の和子生かす手立て考えましょう」 「ありがとうございます。このご恩、決して忘れませぬ」 禅師はまた床ににはいつくばった。その頭上から政子の冷たい声が聞こえた。 「よろしいか、宮中への事、大姫のこと、くれぐれも…」 「わかりました」禅師は深々と頭をさげた。 ■■ 一一八六年(文治2年) 四月八日鎌倉。静の舞当日 その思いにふける禅師の前で、ようやく静の舞は終わり、舞台の袖にいる禅師の方へ戻って来るのが見えた。 磯禅師が静を問い詰める。「静、なぜお前は、この母の言うことを聞けぬか」 激しい口調である。 「母上、私はあの義経様に愛された女でございます。私にも誇りがございます」 「義経殿の和子を危険な目にあわせても、私の言葉きけぬのか」 「それは……」静は言葉に詰まり、涙ぐんでいた。 「もう、いかぬ。残る手だてはあの方か……」 禅師は、期待するような眼差しで、観客席の方を見やる。頼朝と政子は退席しようとしていた。頼朝の怒りが、禅師には手に取るようにわかった。諸公の前で、笑い者にされたのである。頼朝はプライドの高い男なのだ。それがあのような形で…。 ■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 政子を訪れた同日、磯禅師は大江広元(おおえひろもと)屋敷を訪れている。 「よろしい、広元の一存じゃが、禅師殿、静殿の生まれた和子、私に手渡してくれ」 「和子をどうなさるおつもりですか」 「よいか、義経殿、すでにもう平泉に入っているやもしれん。秀衡殿と示し合わせ義経殿が、この鎌倉へ軍を進めたときの人質に、その静殿の和子がなろう」 「和子を人質になさる……」 禅師の顔色が変わっていた。そのような、人質だと。 「どうした、我が処置に不満か」 広元は強気で禅師を追い込む。広元としては、万全の方策をとっておきたか ったのである。今や、鎌倉幕府の中枢は広元が握っている。 「いえ、そのようなこと」 禅師は、ここは広元の話に乗って置く方が善策と考えた。 「よろしいですか、和子を助けるだけありがたいと思い下され」と、広元は押し付けがましく言う。が、その時、禅師は、別の人物にしゃべる 言葉を考えていた。 ■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 同日、磯禅師は、源頼朝と関係深い勧進僧(かんじんそう)文覚(もんがく)にの前にいる。 「文覚殿、お願い申し上げます。どうぞ義経殿の和子生き残れますよう、お力をお貸しください」 「禅師殿、わかり申した。この文覚、いささか頼朝殿とは浅からぬ縁がござる。この伊豆に源氏の旗をあげさせ、決起するもとを作ったのは拙僧でござる。まかされよ、頼朝殿の心反してみましょうぞ」 「よい話でありがとうございます」 禅師と文覚がふと目が会う。お互いが別のことを考えていることが、わかっている。 ■■一一八六年(文治2年)四月八日。鎌倉。静の舞当日 「大姫(おおひめ)様、あなた様のお気持ち、この静はわかります」 静は舞いの後、大姫の前に呼ばれている。 「まて、姫のおん前であるぞ。直接お話を申し上げるとは何事だ」 警備の武士が静を引き離そうとする。 「よい、静の好きにさせるがよい。それが大姫がためじゃ」 政子が許しを出した。 「大姫様、志水冠者(しろうかじゃ)様のこと、それほどお思いでございましたか」 志水冠者は木曽義仲(きそよしなか)の息子であり、頼朝の命で殺されていた。 志水冠者の名が静の口から上ると、大姫の嘆きは一層激しくなるのだった。 「わかります。大姫様、お泣きなされ。それしか、方法はございますまい。この私とて、義経様には恐らく二度と会うことなどできますまい。いっそ死んでしまいたいくらいです。が、私には義経様の命が宿っております」 ■■ 「禅師殿、お願いじゃ」 「これは政子様。何かこの静が」 政子は舞の日の夕刻、密かに禅師のもとを尋ねて来たのである。 「静殿の舞いを、今一度見せてはくださらぬか」 「政子様、それはお許しください。そんなことを繰り返せば、頼朝様の怒りが増すばかり」 「いや、そうではない。この政子の娘、大姫一人のために踊ってほしいのです」 「大姫様のため、一体何のためでございます」 「あのこの気鬱を晴らしてやりたいのじゃ。のう禅師殿。お前様も母親なら ば、おわかりであろう。娘を思う親の気持ちが」 結局、大姫一人のために、静は政子の別棟で舞うことになった。 「しずやしず、しずのおだまき繰り返し…」 その静の踊りを見て、 「よよ…」 と、大姫は泣き崩れたのである。静はすぐさま大姫の前に跪いていた。 「静、それ以上しゃべるでない」 禅師が止めた。 「いえ、言わせてください、お母様。私は頼朝の手にありましても、常に義経様と一緒なのでございます。二度と会うことはできなくても、私はこれからの一生、義経様を愛し続けます」 「お前は何ということを」禅師が絶句する。 「静殿、、、」 かぼそい声で、大姫が初めて口を開いた。まだ13歳のあどけなさが残る。 が、すでに婚約者を殺されている。心の傷は大きい。 「この世で、、初めて、、、友を得たような気がします」 「ありがたい、、お言葉を、大姫様、、、、」 二人の女性は、お互いに手を取り合って、泣き崩れる。 そばにいる二人の母親も、その光景を目にして、しばし言葉がでないのだった。やがて政子が口を開いた。顔色が変わっている。 「禅師殿、私は心を決めました」 「はい、、」 「この政子がお約束いたしましょう。必ずや、静の子供を助けると」 「政子様、そのお言葉、、、ありがとうござります。力強ございます」 禅師は京都ばかりでなく、鎌倉も手に入れていた。 ■■ 第1章7 一一八六年(文治2年) 鎌倉 1186年(文治2年)、草深き坂東鎌倉のに三人の男が対峙 している。東国で武家の天下を草創しようとする男。頼朝。その傍らににて、京都王権にては受け入れられず坂東にて「この国の形」を変えようとする土師氏(はじし)の末裔。広元。対するに、京都王権の交渉家、貴族政治手法である「しきしまみち」敷島道=歌道の頂点に立つ。西行。ここにひとつの伝説が作られようとしていた。 頼朝にとって、西行は打ち倒すべき京都の象徴であった。京都から忌み嫌われる地域で忌み嫌われる職業武家。いたぶるべき京都。京都貴族王権の象徴物・大仏の勧進のい」ために来た男・武士「武芸道」からはじきでた、貴族の象徴武器である歌道「しきしまみち」に乗り換えた男。 おそらくは結縁衆(けちえんしゅう)なる職業の狭間にいる人間とつながりのある男。さらには、奥州藤原氏とえにしがある。坂東王国を繰り上げようとした平将門を倒した俵のトウタの末裔。この坂東にも、そして、義経を育て平泉に送りこんだた男。対手である。その男がなぜ、わざわざ敵地に載りこんだか。その疑問が心に暗雲を懸ける 西行にとってこの頼朝との邂逅は、今までの人生の総決算にあたるかも知れぬ。その長き人生において最後の最終作品になるものかも知れなかった。心に揺らぎが起こっていた。が、その瞬間、かって重源(ちょうげん)と歩んだ高野山の荒行の光景が蘇ってきた。山間の厳しい谷間、千尋の谷、一瞬だが、谷を行き渡る道が浮かぶ。その道をたどる以外にあるまい。 「西行どのこちらへ。」 屋敷の裏手に案内される。矢懸場が設けられている。武家の棟梁頼朝は毎日犬追物をたしなんでいる。的と砂道が矢来をさえぎられ続いている。 「こちらへ」 促されるまま、西行は物見小屋へいざなわれる。 遠くに見える人馬が、的を次々と射ぬきながら、こちらへ走ってきた、頼朝である。 「いさ、西行殿の弓矢の極意を聞き、腕前の程をお見せしたかったのです。」 「大殿は、毎日武芸にたしなみを、、」 「西行殿は、我が坂東の武芸の祭りをご存知でしょうな」 坂東のしきたりが、京都の弓矢道と結びついているのが、西行には理 解できた。京都人でありながら、武芸は坂東と、頼朝は言っているのだ。 馬を返し、再び準備された的をすべて、射抜いている。 「坂東足利(あしかが)の庄にある御矢山(みさやま)で行われる八幡神を祭る坂東最大の祭事である。いわば武家のオリンピっクである 「西行殿、奥州平泉からお帰りにこの祭りに参加いただくことを。望む」 馬上から、息をつきつつ頼朝が叫んでいる。返事は無用という訳だ。答えようとする西行の前から姿を消し、再び馬首を元の方へ。 西行は義経を助けなければ。が、藤原氏の黄金が役に立つのか。秋風の吹く鎌倉で、西行は冷や汗がでてきている。 三度、的をすべて打ち矢って、頼朝は馬上から 「さらに、西行殿、義経のおもいもの静かの生まれし子供の事聞きたいか。和子は男子がゆえに不敏だが、稲村ヶ崎に投げ捨てた」と言い捨てている。後ろ姿に笑いが感じられる。 西行の手をすこじづつ封じている。 西行は動揺を表情に出さず。が、考えている。かたわらにいる大江広元を見た。広元殿、政子殿がいるなかば、わづかばかりの希望あろう。また、そうか、あるいは、静の母磯の禅師糸を引いているかも知れぬ。 希望の光はある。極楽浄土曼陀羅、あの平泉におあわす方が。早く合いたい、さすれば、この身、まだ滅ぼすわけにはいかず。 頼朝は四度撃ち終え、今度はゆっくりと馬を歩ませてきた。 「西行殿、紀州にその領地ありと聞く。弟君佐藤仲清殿。高野山と争い絶えずときく。誠か」 馬上の頼朝は、しばし、西行の回答を待っていた。 「その領地、この頼朝に預けられぬか。さそれば寺との争いは解決しよう」。 佐藤家は高野山荒川庄の領地におしいっている。西行のなりあいの費用はこの家からでている。 いわば佐藤家の家作からから活動資金がでている。紀伊の国那賀郡、田仲庄は紀ノ川北岸にあり、摂関家徳大寺の知行である。佐藤家はこの徳大寺の家人である。今では平家の威光を背景にしてきた。その根っこを、頼朝は押さえよとしている。 「どうであるか、西行殿、この申し出」。 絡め手か。やはり、頼朝は、西行と義経の関係を気づいているか。京都でもそのとこしるは、わずか。大江が秀才顔でしらぢらと西行をにらんでいる。 大江は、水を得た魚。京都から呼びだされ、この鎌倉に根付いた時、歴史は変わった。日本最優秀頭脳集団・大江家。元は韓国(からくに)から来た血筋。この関東坂東で同じ韓国(からくに)の史筋武家の協平家と結びついた。 「すべてのご返事は、平泉からの帰途に」 西行は頼朝の前から去っていく。 「まて、西行殿」 大江が呼びとめようとするが 「勝負は、後じゃ」 「はっつ」 頼朝の打ち据えた的の裏側には、平泉を意味する曼荼羅が描かれている。 そして、西行の最大ライバル文覚とはまだ、対峙していないのだ。 |